2009年01月17日

非営利市民放送とマスメディアを考える その一

 非営利市民放送とマスメディアを考える その一
 隅井孝雄(京都ノートルダム女子大客員教授)
 
 以下の論文は2008年9月に発刊された「非営利放送とは何か、市民が創るメディア」(ミネルバ書房)に掲載された私の論文である。5回に分けて掲載する。今回はその一

 第一節 人と人との対話求めて
 ボンズカフェを聴く
 京都鹿ヶ谷のあたり、東山を少し上がったところに法然院がある。京都に住むようになった私にとって最も好きな寺の一つである。法然坊源空上人がここに草庵を結んで念仏の修行を行ったゆかりの地である。
 法然院は他の多くの京都の寺とはくっきりとした違いがある。境内に入るのに拝観料が要らないのだ。年二回本堂、本尊の拝観が許されるときだけ拝観料がいる。しかし実際には毎日のように人々が本堂や庫裡に出入りしている。法話はもとより、講演会、イベント、個展、コンサートなどが開かれるからだ。
 本堂、講堂、方丈の使用料はとらない。すべて使う人の「お志」である。境内には「共生き堂」(ともいき堂)という森と自然をテーマにした環境センター」も作られ市民グループの拠点となっている。
 このような人々の出会いの場を束ねるのは住職の梶田真章さんだ。梶田貫主は京都景観街づくりさんターの評議員、きょうとNPOセンターの副理事長を務めるなど、市民の活動のリーダー役でもある。
 その梶田貫主は法華寺(亀岡)住職の杉若恵亮さんと二人で京都コミュニティー放送(FM79.7京都三条ラジオカフェ)の毎週一回のラジオ放送「ボンズカフェ」のパーソナリティーを4年間続けている。この番組は毎週火曜日、夜10時から11時の一時間生放送。月一回はスタジオをかねている喫茶店で公開生放送もしている。さらにインターネットでもライブで放送を聴くことが出来る。番組の企画も構成も梶田さん、杉若さんの手になる。
 今年(2008年)1月29日、番組4周年を記念して開かれた公開ライブに私も参加した。
会場の喫茶店「ラジカフェ」はその一角にラジオスタジオもある。30人ほどのリスナーがテーブルのあちこちを囲み、梶田貫主と杉若住職のトークに聞き入る。ファックスが紹介され、代理出産の是非が話題に取り上げられた。ちょうど学術会議で合法化するかどうかが論議されている最中というタイミングだった。(その後2月2日、学術会議は禁止されるべきだが、試行制度は容認する、という報告書を出した)。
 会場の論議がヒートアップしたが、静かに口を開いた梶田貫主は「私は反対します。しかし今の日本で、それを可能にする技術があって本人が望めば出来るという状態で我慢を強いることは出来ません」と語りかけた。代理出産で生まれた子供は生涯悩むことにならないかという意見をめぐって再び紛糾した。それに対する梶田貫主の答えはこうだ。「子供のときいろいろなめに人はあいます。しかしそれで人生がすべて決まるわけではない、最終的な人生とは別問題ではないでしょうか。その人がどのように育ち、どのような人になるかということが大事なのです」。
 まるで法然上人が生きてラジオ番組に出演し、悩み多き人々に語りかけるおもむきだ。ラジオカフェで人気番組となり、毎週聞く固定リスナーの数も多い。

 法然院梶田貫主は語る
 放送が終わったあと、私は梶田貫主に話を聞いた。なぜコミュニティーラジオに自分の番組を持ち、毎週出演するのかを知りたいと思ったからだ。
 4年毎週欠かさず放送していますね。どのように考えて放送されていますか。
 ―――そんなに深く考えているわけではありません。いろいろな方の考えを聞くことが
出来る。たいへん大事な機会です。私はお寺におりますから、何が出来るのかいつも考えていますが、その答えを見つけることが出来るような気がしているのです。
 私のしゃべっていることが必ずしもそのまま伝わるわけではない、ということも勉強になります。皆さんが私どもに何を求めているのか、それぞれの対話の中で、中身がわかっていく、少しずつ変わっていくというのが、人間がコミュニケーションする意味だと思います。しゃべっても変わらないのならしゃべることにどれだけの意味があるのだということになるし、ラジオをやることの意味がない。私が一方的にしゃべることで終わるのではなく、皆さんがさまざまなことについてどう考えていらっしゃるかということが私の中にスーッと入ってくることで、次の私が出来上がっていくというところにラジオの面白みがあると思うのです。
 小さなラジオなら小さなラジオとしての役割があるように思います。身近な人同士のコミュニケーションが生まれてくるということではないでしょうか。
 大きなメディアのテレビと違って、ラジオは一方的にただ発信者が流すのではなく、聴取している人と発信する人がコミュニケーションしながら作っていくという特質があると思います。今の日本ではあまりにもテレビメディアというものに皆さんの関心が行き過ぎていて、コミュニケーションしながらものを作り上げていくという社会になっていないところが日本の社会の問題だと思います
 やれることは小さいかもしれませんが、やればやるだけのことがあると考えるようになりました。人間にとって、誰かとコミュニケーションしながら、作り上げる、放送することはきっと生きていくうえではとても大事な原点だと私は思います。
 お寺でもただ話を一方的にするだけではなく。必ずお話をすれば相手から反応があって、話したことの中で何が伝わって、何が伝わらなかったか、そういうことを含めて語ることには意味があると思います。
 坊主として寺を基盤にしていますが、外に出て行ってお寺に来ない人にも発信する、なおかつ自分も学ぶという意味でコミュニティーラジオはいいメディアだといます。小さな集団ですがその中で人どうしが対話を繰り返しながら自分を見つめていく、発見していく、変えていくことはたくさんあります。人間にはそれぞれに正しいと思っていることがあるわけですが、みんなが正しいと思っていることが一つでなければならないという流れがある中で、そうではなくて、違いや多様性を認め合い、自分が正しいと思うことと人が正しいと思うことの間でコミュニケーションしながら折り合っていくと行くことが大切だと思います。そういう対話ができるメディアがラジオです。コミュニティーラジオなら小さな集団とはいえ、数百人、数千人に広がります。それが繰り返され、何回も聞くうちにわかっていく、話しているほうも勉強をしていくという意味でコミュニティーラジオの存在価値があると思います。
 ラジオカフェというコミュニティー局自体を全体として捉えるようなファンが増えてくれば、このラジオを通じて社会の多様な顔や色がおのずと見えてくるのではないでしょうか。何か伝えたいという人がたくさんいるから成り立っているラジオですから、そこに盛り込まれている多様性に人々が触れる機会が増えるところに将来性があると考えます。

 梶田貫主の展開するコミュニティーラジオ論を私は胸に刻んでスタジオを出た。人と人のつながりを求めて境内を開放している法然院の運営理念はコミュニティーラジオの理念と重なっている、と私は思った。
posted by sumiitakao at 12:09| Comment(0) | TrackBack(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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