2009年02月24日

非営利市民放送とマスメディアを考える その三

 非営利市民放送とマスメディアを考える その三  隅井孝雄

 以下の論文は2008年9月に発刊された「非営利放送とは何か、市民が創るメディア」に掲載された私のロングンである。5回に分けて掲載する。今回はその三


 第三節 読者、視聴者との回路を求めて
 紙面批判、提言に窓を開く―新聞の場合
今メディアに対する信頼が揺らいでいる。NHK職員不祥事、番組改編などに端を発した受信料不払いの増大、視聴率の操作や「あるある大辞典」のデーターねつ造など放送倫理の逸脱、過熱、過剰取材による報道の暴走、新聞人の政治家との癒着などに対して市民の不信感は増幅するばかりである。
 このような状況の中でメディアは一様に読者、視聴者の信頼回復に腐心している。
 最近の「紙面と読者委員会」、「報道検証委員会」、「人権と報道員会」などの名称の第三者委員会を多くの新聞社が持つようになった。その先鞭をつけたのが毎日新聞である。2000年10月発足、外部の有識者三人に委嘱した「開かれた新聞委員会」がそれだ。「名誉やプライバシーなど紙面の人権侵害に対する苦情、意見に対応する」、「報道に意見や批判がある場合、検討を加えて意見を述べる」、「21世紀の新聞のあり方を踏まえた報道の方向性などメディア全体について提言する」などの役割をになうものである。編集幹部と委員との話し合いはその都度紙面に掲載される。読者からの批判や提言が取材は編集に反映される仕組みであり、欧米主要紙に見られる新聞オンブズマンの日本版である。
 現在新聞協会加盟新聞社のうち35社が読者の批判を受け入れに反映させるシステムをとっている。背景にはメディアの過剰報道を理由に「個人情報保護法」、「人権擁護法」を準備してメディア規制を進めようとしていた政府に対して、読者との回路を築くこととによって対抗したいという新聞業界の思惑もあった。(人権擁護法はメディア規正法だとの批判を受け2003年、国会で廃案となった)。
 毎日新聞は一連の動きの突破口となったが、そのネーミング「開かれた新聞」には長い歴史がある。
 1972年毎日新聞が沖縄返還交渉で密約があったことをスクープした。しかし取材した毎日新聞西山太吉記者は機密保護法違反で逮捕され、一旦は「国民の知る権利を守れ」という声が沸きあがった。しかし情報入手の手法が「情を通じて公務員をそそのかした」ものであるとの権力側のキャンペーンに新聞は抵抗できないまま、密約は闇に葬られた。国民、読者に失望感が広がり、毎日新聞を初め新聞の発行部数は大きく落ち込んだのだった。その危機感の中で「知る権利」を擁護し、読者に開かれた新聞を目指そうという動きが新聞労連のキャンペーンとしてジャーナリストの間に広がっていった。
 いわば地下鉱脈に流れていた読者との回路が30年近くたって浮上したと私は思う。

 CMもNHK会長も変えられる―放送の場合
日本の視聴者がテレビ放送に対して始めて主体的、能動的にかかわったのは1970年代であった。婦人団体、消費者団体が子供向けテレビCMの改善を求めて民間放送連盟への働きかけを強め、1974年の放送基準改定に際して、過剰CMの削減、タバコ広告、アルコール広告、サラ金広告の制限などを要求の一部を実現するという出来事があった。放送局の労働組合民放労連が主婦団体、消費者組織と連携したことは基準改善への原動力となった。
 1997年にはFCT子供のためのテレビフォーラム(後に市民のためのテレビフォーラムと改称)が誕生しメディアリテラシーの提唱など、活発な研究と運動が積み重ねられた。その後その重要性が日本社会に定着したのはFCTの功績と言えるだろう。
 NHKでは戦後から一貫して国民と政治権力との綱引きが続いてきた。占領下に解体をまぬかれたNHKは国民の代表としての実態を備えた放送委員会の監督下に置かれることになった。しかし占領終結とともに消滅し、再び政府(郵政省)の管轄下に置かれることになった。それでも会長職はジャーナリズム出身者という時代が続いたが1973年郵政省天下りの小野吉郎会長が就任した。しかし小野会長がロッキード事件に関与した田中角栄元総理を擁護したことから世論が沸騰、800万に上る署名が集まり、NHKの労働組合日放労が天下り会長阻止の運動を展開した。
 この結果、芸能局長として優れた番組を生みだした坂本朝一氏が衆望をになって会長職についた。世論が生んだ会長ということが出来る。その後財界出身の池田芳蔵会長の辞任、報道出身の島桂次会長の辞任、放送現場出身の川口幹夫会長の登場、最近の海老沢勝二会長辞任などがあり、その都度会長の選任で政府与党、官僚、財界、労働組合などの綱引きが続いている。2008年には与党に近い財界出身の福地会長が登場するなど、それは今も続く。

 BPOに見る市民参加のツール
 放送は1990年代の後半、再び新しい市民との回路を作る方向で動き出した。その結果放送の改善について一定の実効を伴い、さらに言論や表現の自由も保障する第三者監視機能BRO(放送と人権に関する委員会)が1997年に発足した。現在BPO(放送倫理、番組向上機構)といわれている組織の前身である。
 1990年代はケーブルテレビの普及が進むとともにCS放送の登場(1997年)、民放各局によるBSデジタル放送の開始(2000年)などでテレビチャンネルが拡大の方向に向かっていた時期である。同時にテレビ放送に対する批判が沸騰したのも1990年代だった。代表的なものだけでも1993年テレビ朝日椿報道局長発言(細川政権は久米田原政権)に対する自民党からの批判と国会喚問、1992年NHKムスタン、読売テレビ看護婦大会(「どうなるスコープ」)など、一連のヤラセ番組の続発、1994年松本サリン事件での河野義行犯人説の誤報、1997年神戸小学生殺害事件、1998年和歌山カレー事件など場合に見られる過剰取材、過熱報道などである。また少年の凶悪事件が続発したことにより、その原因をテレビに求め、性表現、暴力表現を規制する動きもあった。
 1996年に開催された「多チャンネル時代における視聴者と放送に関する懇談会」は以上のような放送の状況を改善する上で重要な会合となった。当初はBSやCSの拡大、デジタル化に対応することだけを任務にしていたが、見識のある有識者や消費者団体の代表が委員に加わっていたことを反映し、「放送による社会参加の拡大」、「番組の多様化のための環境保護」、「放送事業者の自主性と責任」など時代を反映するテーマが論議の対象になった。
 その結果、メディアリテラシー普及の必要性、青少年番組の改善充実、第三者機関としての「放送と人権委員会」(BRCのちにBPO)の発足が合意されたのである。
 1997年発足したBPOは司法機能を伴う第三者機関として重要な存在である。放送による権利侵害を審理して放送局に勧告する権限を持つとともに放送倫理上の問題があれば「見解」を出して、放送局側の是正を喚起する。またBPOの青少年委員会は局と視聴者をつないで、青少年番組の充実、是正を図る「勧告権限」がある。
 「発掘!!あるある大事典」のデーター捏造問題(2007年1月)のあと、2007年5月、BPOは改組され、人権、青少年に加え新たに「放送倫理検証委員会」が誕生さらに権限を強化した。
 市民、視聴者側の発言の保障という意味でBPOは必ずしも十分な効果を発揮していないという意見がある。常に介入の機会をうかがう政府に対する言論表現の自由の防波堤だという見方もある。
 NHK、民放の放送側も、視聴者の側もBPOを十分活用しているとは言いがたい現実がある。しかし視聴者からの申し立て、意見表明は2005年に1万件を超え、2007年はおよそ16993件(2006年比5961件、54%増)に達している。この回路をさらに拡大し、放送番組の充実、改善に役立て、視聴者の参加のツールにしていく必要があるだろう。

posted by sumiitakao at 22:51| Comment(0) | TrackBack(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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