2006年10月25日

アンカーズアウェイ・・・・変革の中にあるアメリカのテレビジャーナリズム

アンカーズアウェイ
変革の中にあるアメリカのテレビジャーナリズム


 1980年代初頭からほぼ4分の1世紀にわたってアメリカのテレビジャーナリズムをリードしてきた三大ネットワークアンカーがここ一年の間に次々にテレビを去った。NBCトム・ブロコウ(2004年12月)、CBSダン・ラザー(2005年3月)、ABCピーター・ジェニングス(2005年8月)、そしてABCテッド・コッペル(2005年11月)である。時代を画した彼らを送るため、新聞各紙にはAnchors Awayという文字が躍った。一斉の世代交代の後のアメリカのテレビニュースの進路は霧の中である。
ネットワークニュースの視聴率、視聴者数は80年初頭の12-15%、1500万人からこの20年間じわじわ低落し現在では7-10%となった。それに加えてCNN、Foxなど24時間ケーブルニュースが力を増し、インターネットメディア、ブロッグの台頭しつつある状況の下でのテレビニュースは否応なしに新旧交代の時代にさしかかっていたともいえよう。

四人のアンカー達の4分の1世紀
(ピーター・ジェニングス)
悲劇は突然やってきた。2005年4月5日いつものように始まった夕方のネットワークニュースの最後にピーターは自分が肺ガンであることを語り、治療のためにしばらく番組を休むと告げた。20年間の禁煙後9.11以降再び喫煙するようになったことも告白して視聴者を驚かせた。彼はしかし番組に復帰するとはなかった。8月7日ABCニュースは彼の訃報を伝えた。
彼がABCニュースのアンカーの地位についたのは1983年であった。CBS、NBCの後塵を拝してきた二流ABCニュースを、他のネットワークと互角に勝負できるよう盛り上げた功績は大きい。カナダCBCでニュースレポーターをしていたピーターは20歳のときABCニュースにスカウトされた。そして26歳の時当時15分しかなかったABCニュースのアンカーに抜擢された。ABCにとってもピーターにとってもこれはギャンブルであった。ハンサムボーイの未経験者、そしてアメリカ人の嫌うカナダアクセントは視聴者にそっぽを向かれた。自らアンカーを降り、彼はインド、レバノンなど、アジア、中東などからレポートを送る海外特派員に転じた。これが後半生彼の大成に大いに貢献することとなる。1972年ミュンヘンオリンピックに報道記者として特派され、イスラエル選手団人質、殺害事件のレポートで脚光を浴び、1978年ニューヨークに呼び戻された。
9.11では一週間にわたってノンストップで放送を続けた。中東取材の長い経験は彼の報道に厚みを持たせるものであった。危機にあるアメリカで大統領の資質が問われていると考え、ブッシュ政権の対テロ政策、イラク戦争への戦略を検証することに力を注いだ。しかしABCのこうした報道姿勢は保守派の標的となり、「彼をやめさせるべきだ」と主張する脅迫まがいのサイトも立ち上げられるほどであった。視聴率も下がり、好戦的報道を売り物にするケーブルニュースFoxにも遅れをとった。しかしイラク戦争の混迷からの脱却を図るアメリカの世論の支持が次第に集まり、2004年秋以降ABCニュースは急速に上向いていた。ライバルの二人が去った後、ABCピーター・ジェニングスはネットワークニュースのトップランナーとして地位か約束されていたのだったが・・・・。
NHKアメリカ総局長の藤沢英敏キャスターとの対話の中で「ジャーナリズムの仕事は世論を動かすことではない、権力を持たない一般市民の代わり見張り役となって政府に疑問をぶつけること、事実を伝えることが大切だ」と語っている。この言葉に彼の報道姿勢がうかがえる。
(トム・ブロコウ)
トム・ブロコウは1983年NBCのアンカーの地位を獲得した。先輩アンカーとしてテレビ報道の今を築いたジョン・チャンセラーの後継であった。
サウスダコタ出身の彼は若い頃からテレビにあこがれ、地元の局でのアナウンサーやレポーターのアルバイトから身を起こし、1966年念願かなってNBCに入社した。ベトナム戦争の只中、アメリカの分裂と混迷の中でキャリアーを積んだ。
彼は政権を激しく批判することはなかったが、政権寄りになったこともない。世論がイラクへの報復を叫んでいるとき、世論に逆らうのではなく、正確なニュースを視聴者に送り届けることを心がけた。ソフトな語り口での客観報道に終始し、視聴者を捕らえた。彼が就任したときは最下位であった視聴率は、退任時は不動の一位であった。
「私が心がけたのはただひとつ、真実を正しく伝えることであった」(I had only one objective--to get it right)という言葉が退任の日の番組のエンディングを飾った。
ブロコウを見ているとアメリカがわかる。
(ダン・ラザー)
CBSダン・ラザーはあらゆる意味でトムブロコウと対照的なアンカーであった。彼のキャリアーはライバルの二人より早く、50年代の公民権運動取材から始まっている。ケネディの死去を誰よりも早く伝えたのはダン・ラザーであった。アフガニスタンやベトナムの戦場の真っ只中からレポートを敢行して名をはせた。
1981年、テレビに君臨したウオルター・クロンカイトを引き継いでアンカーの座に着いた。その後も事件は続く。スポーツ中継が延長してニュースに食い込んだことに反発、アンカー席を立ち放送に穴を開けた。先代のブッシュ大統領とは生放送で激しい口論を繰り広げた。イラク戦争開始の報道では、「私はアメリカ国民としてこの戦争を支持する」と涙を浮かべて視聴者を驚かせた。ブッシュ大統領が若い頃予備兵として特別待遇を受けたという特ダネを報道し、ブッシュ政権と対立。しかし証拠となった文書が捏造だとわかりニュースの中で「I am sorry」 と謝罪、結局この失策が引き金となって引退に至った。
(テッド・コッペル)
42年にわたってABCに在籍し、25年間ナイトラインのアンカーを勤めたテッド・コッペルも2005年12月ABCを離れた。1980年から始まったナイトラインはイラクのアメリカ大使館の占拠、人質事件を連夜放送するために生まれたニュース番組である。テッド・コッペルはこの番組を拠点に、ニュース報道の新境地を開いた。番組の特徴は全米、全世界あらゆるところから中継し、直接当事者にインタビューするところにある。
イラク戦争では果敢にも第三歩兵隊に従軍取材、砲弾をかいくぐってレポートした。アメリカのネットワークがアルジャジーラの配信した米兵捕虜や遺体の映像を放送しなかったことを知ると、戦場からの生中継の中で、自社の姿勢を批判した。「戦場ではイラクの若者もアメリカの若者も命を落としている、この現実から目をそらすのは間違っている。報道の役割は戦争がいかに残酷かを伝えることにある」と喝破、ネットワークが放送を控えていた映像を再開するきっかけを作った。
 
 先駆者エド・マロー、屹立するウオルター・クロンカイト
 アメリカのニュースアンカーたちの伝統を最初に切り開いたのはテレビ報道の先達、CBSエド・マローである。第二次大戦が終わってテレビ放送が再開された頃、テレビはコマーシャルを満載した娯楽の箱と思われていた。それがラジオから移ってきたマローボーイズという一団によって大きく変えられることになった。
 エド・マローは第二次大戦中CBSのロンドン特派員として活躍した。空爆下のロンドンからのラジオレポートは臨場感あふれるものであった。「アメリカの世論をヒットラーとの戦いに導いた」と言われている。
 彼はそれまでアナウンサーが読み上げていたニュースを、レポーターが自ら取材して放送する方式に変え、多くの若いレポーターを育て上げた。それがマローボーイズである。
 テレビに移ったエド・マローはテレビ初の本格的報道番組「シー・イット・ナウ」をスタートさせ、アメリカ中、世界中にカメラとレポーターを送った。彼の最初の関心はアメリカのおける人種差別、南アフリカでのアパルトヘイトだった。核兵器問題、朝鮮戦争、キューバ問題と取材範囲は広がり、そしてゆきついたのがマッカーシズムであった。一年間に及ぶ入念な準備の後マッカーシーの恐怖に正面から挑み、マッカーシー上院議員は辞任に追い込まれた。
 CBSのイメージは大きく向上したが番組のスポンサーが降り、代わりのスポンサーはつかなかった。当時のスポンサーはアイラブルーシーのような大衆受けする娯楽番組やクイズに大金をはたく方を選んだのだった。
 「シー・イット・ナウ」の後、マローは娯楽的要素の強いマガジン番組をまかされ、有名人、俳優などとのインタビューをこなしたが、やがて失望してケネディ政権の報道官となり、二度とテレビに戻ることはなかった。
 エド・マローの苦い経験にもかかわらず、テレビは大きな政治的影響力を発揮するようになった。1960年のケネディとニクソンのテレビ討論がそれを立証した。そうしたなかでベテラン記者であったウオルター・クロンカイトがCBSニュースのアンカーに起用された。今から思えば「ライトパーソン、ライトタイム」(ぴったりの人物がもっともぴったりした時期にはまった)というわけである。
 クロンカイトはUPI通信の記者として第二次大戦中従軍記者となった。戦争が終わってアメリカに戻るとエド・マローから声がかかりCBSニュースに入った。1962年ニュースアンカーとなり、アメリカのネットワークで独占的な地位を築いた。国民の信頼度は大統領を上回るものだったといわれている。そしてアポロの月面着陸の実況中継では世界中の人々をテレビに釘付けにした。
 引退した1981年、日本のテレビ局の取材に答えたクロンカイトは彼の報道姿勢について次のように答えている。「報道マンは社会や政治を変えるというような責任を持つべきではない。われわれの責任は事実を伝え判断は人々に任せるということだ」。
 しかしクロンカイトは生涯一回だけその影響力を行使したことがある。それはベトナム戦争の時だった。
 1968年2月ベトナムを訪れ、自分の目で見たレポートを放送、次の言葉で締めくくった。「泥沼から出るための理性ある方法とは民主主義を守ったものとして交渉することです」。この後北爆は停止されパリ和平会談が始まった。この番組を見たジョンソン大統領は「クロンカイトを失ったということは世論を失ったということだ」:とつぶやき再選を断念した。

 模索するアメリカのテレビジャーナリズム
 事実に即した客観的、分析的報道というアメリカのテレビジャーナリズムの伝統は今ゆらいでいる。イラク戦争では愛国主義を掲げアメリカ軍と一体になった報道を展開したケーブルニュースFoxが視聴者の支持を受けて躍進した。トークラジオやブログでは、保守主義を標榜し、政権に対する批判を封殺する言論が有力である。そのような傾向がアメリカ全体を戦争に駆り立てた。
 ネットワークニュースの特質のひとつに何が重要なのか、何が問題の焦点かを提示する機能があるといわれてきた。いわゆるアジェンダ設定機能である。
テレビネットワークは一日30分(CMをのぞくと実質20分)という限られた時間のニュース報道に全力を投入している。今日のアメリカ、今日の世界を凝縮して捉え、何が大切な問題なのかを示すという機能を果たしてきたと私は思う。
しかしケーブルの24時間ニュースや、インターネット上のニュースは、無限にとりとめもなく流れるニュースの洪水のなかに人々を放り出す。しかもそのほとんどがヘッドラインのスタイルであり、とことん事実を追いかけ、ニュースを掘り下げていくものではない。
新しいメディア秩序の中でアメリカの第三世代アンカーたちが、ピーター・ジェニングス達の残した遺産をどう受け継ぎ、どう活路を切り開くのか行く先はまだ見えていない。


CBSニュース
1962-81 ウオルター・クロンカイト 1981-2005 ダン・ラザー
(93-95コニー・チャン加わる) 2005-2006 ボブ・シーファー
2006.9 ケイティー・クーリック
NBCニュース
1970-82 ジョン・チャンセラー(76-79デイヴィッド・ブリンクリー加わる)1982-2004 トム・ブロコウ (82-83ロジャー・マッド加わる)
2004 ブライアン・ウイリアムス
ABCニュース
1969-78 ハワードスミス、フランク・レイノルズ、ハリーリーズナー、バーバラ・ウォルターズらの組み合わせ続く
1978-83ハリー・レイノルズ、マックス・ロビンソン、ピーター・ジェニングス1983-2005 ピーター・ジェニングス
2005 エリザベス・バーゲン、ボブ・ウッドロフ(入院中)
2006 チャールス・ギブソン
ABCナイトライン
1980-2005 テッド・コッペル 2005 テリー・モラン、シンシア・マクファデン、マーティン・バシアー

この原稿はGallac(放送批評懇談会)2006年6月号に掲載された
posted by sumiitakao at 13:54| Comment(0) | TrackBack(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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